読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

堕落、してますか?

 米国ノースカロライナ大学のウィルバー・ウォーリントン教授は、2001年にこんなものを発表しています。

 貴方が堕落しているかどうかを知るためにはどうすればよいか。我々研究チームはこの問題への対処方法を科学的に解明した。すなわち、「堕落指数」の導入である。我々は過去の膨大な実験データから驚くべき規則性を見出だし、その結果、堕落指数を用いることにより堕落レベルを測定することを可能にした。
 堕落指数とはこうである。
N(堕落指数)=mg^t
 但し、mとは一日の自慰回数、gは重力加速度、tとは自慰にかけた平均時間(min)である。
 N=0…無堕落状態
 0<N≦1…小堕落状態(さして問題はなし)
 1<N≦2…中堕落状態(一時性対人恐怖症発症の恐れあり)
 2<N…大堕落状態(テクノブレイクの恐れあり) 」
(Wilbur Warrlington "The Scientific Theory Of Corruption And Its Possible Effects"(2001) 引用は筆者による和訳)*1

 私がこの論文を初めて目にしたとき、あまりの単純さに呆れたのをよく覚えています。そもそも、仮に自慰をしなかったとすれば堕落指数は0にしかなりません*2。そんなバカな話があるか、ということです。世の中には色んな人がいる。貴方の隣の乗客は浪人生かもしれませんし、一夜に30人の女性と致したという伝説を持つサラリーマンかもしれません。貴方の向かいの席の人はセクシャルマイノリティかもしれませんし、シーランド公国伯爵かもしれません。多様性の時代と言われるようになって久しいです。一見理解できなさそうな人のことだって認める努力をしなければいけない。たとえ理解することができなくても。それが是とされるような時代ではありませんか。それにもかかわらず、このウォーリントン教授ときたらまさに時代への逆行も甚だしいところです。なんと、自慰をすることが堕落していることの必要条件*3と言っているのです。既に述べた通り、色んな人がいますから、当然自慰をせずとも堕落している人はいるはずです。


 ところで、恐らく誰しもがいつかは堕落的な生活や破滅的な愛に憧れを抱くものだと思うのですが、私にとってそんな時期は中学二年生の時でした。きっかけは太宰治の『人間失格』―そう、あまりにも有名な堕落文学―を読んだことです。私は作中の主人公と自身との異常なまでの重なりに感動し、堕落に憧れました。こうなると、周りの人々などどうでもよくなってきます。別に他人にどう思われようと、仮に嫌悪されても何の問題もないのです。寧ろ他人のそんな感情は歓迎されたことでしょう。
 結局、私は高校生になった辺りで自身の「堕落趣味」に疑問を呈すようになり、堕落への憧れは私から徐々に消えていったわけなのですが、今となって振り返ってみればあの頃に私の内部においてある種の個人主義が形成されたのではないか、と思うのです。悪く言えば「孤立主義」とも言えるのかもしれません。ともかく、中学二年生の頃の私はどこかおかしく、名実ともに中二病だったと言えるでしょう。


 さて、昨夜は大変でした。何度目の親子喧嘩か。私のここ最近の勉強への向き合い方に対して不満があったようです。私にしてみても、受験当日まで一週間を切った今になって自分自身の日々の生活を振り返ってみれば、やはりこの一年間は時期によって非常に異なる生活態度であったと思うわけです。春に「部活を引退したらやっと勉強に身が入る」なんて意気込んでいたのが今では嘘みたいです。私は夏辺りを境に自分の成績が下がっていくことに焦り始めました。というのも、当時は第一志望専願であり、不合格なら即浪人という、成績の振るわない私にとり特攻・ギャンブルのようなことを企んでいたのです。成績が下がっていく現実を目の当たりにし「これはまずい」と挽回を図りましたが、やはり下がっていきました。「なにかやり方が間違っているのではないか...」と明確に自覚し始めたのは12月に入ってからでした。こうなっては他に策を講じるしかない、と私は併願校探しを始めました。すると、候補に挙がったのはS大学。魅力は、文理共通のキャンパスであること、私の興味分野である歴史学が学べること、在校生の男女比に偏りがないこと*4。そして、何よりも自宅から近いこと。驚きの近さです。「朝ドラ観てから家出れる」みたいなレベルではないでしょう。このような魅力を考えると、自分の成績からするとどうやら十分手の届きそうなS大学へ進学することがとても"いいこと"に思えてくるのです。とはいえ、このような思考はいわば「逃げの思考」に過ぎません。やはりS台予備学校のキャッチコピー「第一志望は譲れない!」というような意志が受験生には必要とされるのでしょうし、またその点において受験の必要性が盛んに叫ばれるのでしょう。だからこそ受験生自身が「第一志望を譲る」ことに甘んじているとしても、彼らの周囲の人々は「それではいけない」と諭すのでしょう。現に私とその家族はそのことで激しく口論を繰り返してきたわけですが、ひとまず2月26日を終えれば議論は停止です。しかし、予め終わりの見えている議論というのは妙に気分が良いものですね。


 2月初頭時点での第一志望校の合格可能性はE判定でした。以来の私の勉強時間は着実に減少しているので、その可能性が下がることはあっても上がることはありません。というより、そもそもこれ以上、下がりようがありません。2月20日現在の私は、限りなく無謀な挑戦に対する果敢なスピリットなど持っておらず、例えばこの記事冒頭の作り話に「本当に下らないな~」と嘆いてみたり、「jitaku vacation」とツイートしようとする寸前で「これ以上の自虐は罪だ、そして詰みだ」と考え直してみたりしているわけです。これが私の現実でした。ちょっと前までの自分は、直前も直前の時期になれば死に物狂いで勉強するものだと思っていました。しかし、その幻想は自分自身のために崩れ落ちました。他の受験生がどうであるかは知りません。
 ともかく、私は今現在、もはや選挙権を有している"大人"とは思えないような怠惰な生活を送っているのですが、自分ではこれを堕落とは思いません。なぜなら、その先には未来があるから。この一点に尽きます。そう、大学入学後という未来。その未来に裏切られ、その時点で現在の私が夢見がちな子羊に過ぎなかったのだと分かったとしても。今の私には縋る思いで未来を信じずにはいられないのです。
 堕落、してますか?もしもあなたが頷くのなら、一緒に未来を信じよう。私の、あなたの、絶望的な現実なんて忘れてしまおう。


 

*1:Google Scholarで検索しても無駄です。だって存在しないのだから。

*2:そうですよね?筆者は数学に自信がありません

*3:そうですよね?筆者は数学に自信がありません

*4:特異な環境に6年間おかれていた私にとり、やはりこのことは重要です