読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

畏怖

 皆さん、如何お過ごしでしょうか。同級生の方々は新たな進路が決定し未来への期待感に胸を膨らませたり、来年の受験に向けて気持ちを入れ替えているのではないでしょうか。終わってしまった一つの時代。卒業。思えば、私が通っていた中学・高校に入学した6年前から個人的に変化した部分は数多くあります。人付き合いや話し方なんかは大きく変わってしまいました。
 

 そんな中でも幼い頃からずっと変わらないものがあります。それは恐怖。鉄塔への恐怖です。 
 私が1歳の頃から住んでいる町は東京の郊外です。故に都会では恐らく存在し得ない、鉄塔が立ち並ぶ景色を私は見続けてきました。幼児にとってあのあまりにも巨大な構造物は実物以上にhugeだったに違いありません。鉄塔の真下へ行けば、その想像を絶する巨大さ、そして「触れるな危険」との赤字の警告。恐怖を抱かない筈がありません。しかし前述の通り、私の町には鉄塔が立ち並ぶ。故に仲の良い友人の家が鉄塔の麓(敢えてこのような表現にします)に位置していることも珍しくはありませんでした。そもそも小学生時代の友人など少ないのですが*1。その中でも最も仲の良かった友人、仮に彼の名前をAとでもしておきましょうか、の家は鉄塔のまさに麓でした。私は彼の家にお邪魔する度、あの忌々しい鉄塔に接近し怯えねばならなかったのです。


 あの日、勿論正確な日時など記憶していないのですが、私はAの家にお邪魔していました。両親の方針のためにゲーム機を買い与えられなかった私は、彼の家で一緒にゲームする時間に最高の幸福を感じていました。ただ、その日はあまりにも熱中し過ぎたようです。ふと気付いた頃には時刻は19時を大幅に過ぎていて、辺りは本当に真っ暗でした。そんな時間まで彼の家に長居することは初めてで、Aの母親は私に早く帰るよう言い渡しました。私は何の抵抗も見せず素直に「お邪魔しました」と告げ、素直にお辞儀し、素直にA家の門を閉じ、素直に自宅の方向へ歩を進めました。
 しかし、私は何となく湧き出た焦りのために肝心なことを忘れていたのです。そう、鉄塔。あれを通り過ぎなくてはならない。それに気付いた瞬間、私は歩みを止めざるを得ませんでした。‐いま、じぶんはどこにいるのか‐私は頭上の暗すぎる程暗い夜空を眺めてみました。すると、なにか細いような太いような線が一本あるいは数本。はじめはなんだかよく分からなかった。だけど、すぐに分かった。‐これは電線だ!‐暗い夜空を背景としては当時の私には分かりづらかったのですが、鉄塔から延びる何本もの電線が私の頭上にあり、それらが丁度重なって見えていたのです。そうして何となく細いような太いような不気味な線が。無意識のうちに私は鉄塔に目をやっていました。暗闇にずっしりと佇む尊大な構造物。私はあまりの恐怖に、目を伏せて走り出しました。目的地は勿論自宅だけれどそこへ向かっているのかは確実には分からないのだが。車に轢かれる可能性だってあるのだが。私は兎に角走りました。やがて自宅に辿り着き、ことなきを得ました。‐あの鉄塔はバケモノだ!‐そう、私は確信しました。


 また、こんなこともありました。前述の体験と同様、小学校低学年の頃だったと思います。自宅付近で工事がありました。鉄塔を建てていたのです。私は「どうしてまたあんなものを…」と思ったに違いありませんが、父親は興味津々。結局、私はそんな父親に連れられて工事現場まで向かうことになりました。騒々しい現場では父親が「いつ頃完成するのか」、「どれだけの人員が動員されているのか」といったことを尋ねており、小さな私はただただそれを耳に入れていました。やはり鉄塔は怖かった。しかし、目の前のそれは完全でない。不完全なんだと思うと、なんだか可笑しくなってきました。こんなものに脅かされている自分。約10年前に建設途中だったその鉄塔は勿論、現在健在です。


 時々思うのです、鉄塔に対する恐怖というのはただの恐れではなく、実は畏怖だったのではないのかと。なにも鉄塔の役割や姿形を尊敬しているのだと言いたいわけではありません。いや、後者に関しては部分的に正しいのかもしれません。鉄塔はあまりにも巨大すぎたのです。そして完全すぎた。
 イメージは「強い」といいます。文字や音声よりも視覚的なイメージは心に残りやすく、トラウマになりやすいそうです。特に幼児にとっては。右も左も分からず、一体何が正しくて誤りなのかも分からないちっぽけな幼児‐私‐にとって、あの巨大かつ完全すぎる鉄塔は取り敢えず正しく思えたのではないのでしょうか。言葉に表せないような不気味さを備えていながら。私は成人手前のこの年齢になって、ようやくそう思うようになりました。勿論これが正しいかどうかは分かりませんし、そもそもそれを判定する方法さえ見つかりませんが、ただ一つ、鉄塔に対する恐怖が私の心の中でそれ程に生き続け、離れなかったのだという事実は確かなようです。


 今、引っ越しを終え、新しい町に住んで気付いたことがあります。鉄塔が殆ど存在しないのです。あの恐怖の対象は姿を消しました。ですが、どういうわけか淋しいのです。これは、自分でも本当によく分からないのですが、なんだか淋しいのです。先日、訳あって以前住んでいた町へ赴いたのですが、あの鉄塔ばかりの風景に‐やはりこれだ‐という気持ちでした。怖いのは確かでも、あれは私には必要なモノだったのでしょうか。愛おしさ?それは郷愁に付随して?本当によく分かりません。


 下らない思い出話ですが、私の鉄塔に対する恐怖は畏怖だったのではないか、という話でした。

*1:実際に数えてみたところ友人は5人以上10人以下といったところです。因みに現在でも連絡を取り合っている友人は皆無です