近況など

「完全な美しさは存在しない」
そう言い残して消えていった彼は今頃どうしているのだろうかとふと思う。最近は私も同感だ。そう、完全な美しさは存在しない。あんなに綺麗だった人もほんとうには綺麗ではないし、あんなにmovingだった夕暮れもほんとうにはmovingじゃない。だから私はすべてを信じない。すべてを拒絶する。面白いものなんてなにもない、美しいものなんてなにもない……なにもないんだ………



 大学に入学してちょうど一ヶ月がたった今日、ゴールデンウィーク明けの最初の授業を数時間前に終えました。なんとなく慣れてきた大学生活は3サークルを掛け持つ文学部生としてスタートしました。哲学、歴史、社会学……そういった学問の初歩を学びながら興味のある本を読んでいる毎日です。ちなみに昨日近所の本屋で購入したのはマルクスエンゲルスのアレ*1と『ロシア革命史入門』。私は歴史学専攻を考えていますが、特に興味を持っているのがロシア革命です。ロシア革命史を学んでいると、俺も革命を起こす、絶対に革命を起こすぞという気持ちになり、気分が徐々に高揚してきます。俺は必ずや欧米列強の憎き憎き帝国主義に抗い帝政ロシアを崩壊へ導くぞ、そして世界史上初の社会主義国家を建設すれば第一次世界対戦からの離脱を表明!!みなさんとは違う!!みなさんとは全く違う!!俺はみなさんとは違うんだ!!!



 ゴールデンウィーク中はなんともいえないような先輩*2と一緒に立川の街へ繰り出してみたりしたわけですが、カラオケ費を奢ってくれたことから先輩のイメージがちょっと変わったのでした。Twitterではあんな感じだけどこの人はいい先輩なんだな、と。思えば、私は誰かに奢るという経験をしたことがありませんでした。どのくらい前だったか、後輩と一緒に世田谷の小さなカフェに入ったことがあります。そのとき私は「おれは先輩として奢るべきだ」と思いました。それはまた後輩が女子である一方で自分はそうではない、という性別的立場の自覚からくる思案でもありました。しかし私は食事を終える頃にはすっかりそのことを忘れていて、きっちり彼女に払わせました。しまった…と思ったのは帰りの電車の中で、次こそはきっと…と心に決めたのです。次は、ありました。あれはたしか夏のことです。新宿のレストランで彼女と再会した私は、きっと奢ろう!という気持ちでそのときを迎えていました。他愛のない話でもしながら食事を終え、会計の瞬間。「今日は僕が奢ろうか」そう言いました。すると、「いや、大丈夫です」えっ…大丈夫なの……頭脳明晰な私はその場で彼女の「いや、大丈夫です」という発言を解釈し始めました。広辞苑*3で「大丈夫」という単語を牽いてみよう。この場合は形容動詞だ。

1.あぶなげがなく安心できるさま。強くてしっかりしているさま。「地震にも―なようにできている」「食べても―ですか」「病人はもう―だ」
2.まちがいがなくて確かなさま。「時間は―ですか」「―だ、今度はうまくいくよ」

(なるほど、大きく分けて2通りの解釈ができるわけだ。1.の場合、安心できるのが奢るという行為ならばおれの奢りを受け入れてるってわけだな。安心できるのが彼女自身だとすると、奢りを断っているってわけだ。奢ってもらう必要はないってことだな。2.の場合も同じようなもんだ。ここで、「大丈夫です」直前の「いや」に着目しよう。難所だ…きわめて公平にいえば、この「いや」は否定的なニュアンスを持つだろう。たしかに最近の若者はことあるごとに「いえ」「いや」と口走るようになった。そのためにそれらの語の持つ意味は文脈への依存度を高め、我々は相手のコミュニケーション能力を相互に信頼せねばならない。しかし、いや、だからおれは彼女を信じよう。彼女の「いや」は否定だ。とすると…彼女はおれの奢りを断っている!)
私はたじろぎました。おれはいつもより多目に札を財布に入れてきた…彼女は高校生だしそんなにお金に余裕があるわけがなかろう*4…どうして奢りを断るんだ…?私は混乱しました。私があまりの驚きに未来語を口走り彼女まで混乱させてしまったのはここだけの内緒です*5
 あれ以来私は数度誰かと二人で食事をする機会を持ちましたが、奢りを提案したことすらありません。誤解してほしくないのは、彼女が悪いのでは全くありません。むしろ彼女の反応は当然だったのかもしれません。考えてみれば、「奢ろうか」と言われ「是非是非」と即答する方がおかしいのです。悪いのは私、つまり言葉を言葉通りに受けとることしかできない私のクセのせいなのです。私はこのクセをほんとうに嫌っており、そのためもあって何もかも信じたくないという気持ちになっているのです。



 悪いのは私、といえば思い当たる事柄がいくつも頭に浮かんできます。私が比較的最近(今年に入ってから)に重ねたいくつもの失敗はすべて私が悪いのでした。もう具体的に述べるのも嫌なので言いませんが、すべて私が悪かった。理不尽なこともありましたが、みなさんはなにも悪くないです。生きることが義務なのか権利なのか近頃よく考えるようになりましたが、少なくともすべて主体の自己責任であることはどうやら確からしい。私が大学へ通っているのは浪人は避けたいという意思のもとで妥協を重ねた結果です。これは全くの自己責任です。Twitterで意味不明なツイートをして承認を全く満たせないのも、男女混交グループや老夫婦を見るたびに胸が締めつけられるようになったのもすべて私のせいです。みなさんのせいでは決してありません。



 進んでいく方向も分からないまま漂っているとしあわせになれないだろうというのは感覚的に分かるのですが、今までそう生きてきたものですからなかなか大変です。だから思いきってナンパでもしてみようかなんて思っているんですが、まだ思っている段階です。私が悩んできたのは冴えない容姿だけではなく、自分を構成する要素の少なさ、或いは薄さでした。もともと人を笑わせるような能力もなく、以前から自身のつまらなさにうすうす気づいてはいました。勉強、音楽、読書、遊戯…そのどれも中途半端にこなしてきた私は18になったいま、なにもわからずにひとりです。以前『ゆううつのリズム』という記事で自身の人生を自虐行為から拡大して「怠惰と開き直りの歴史」と表現しましたがまさにその通りで、さらに2017年3月のいくつかのショッキングな体験を通じて自分の価値についてよりちゃんと考えねばならないと感じている、そんな最近です。

*1:共産党宣言

*2:でも面白くて少し尖っているいい先輩です

*3:正確にはデジタル大辞泉

*4:一応断っておくと、私も当時高校生で、財布の中の札はすべて親の金でした

*5:嘘です